組みやすい相手
一緒に仕事をしたり、仕事を頼んだりする場合、相手が「折れてくれる」と助かる。「折れやすい相手」だと仕事がしやすい。
「イエスマン」ばかりで身の回りを固めるのは良くないなどど言われるけど、難局を切り開いてゆくときは、「何も聞かないでついて来てくれる部下」がいると助かる。
私の独創的な個性に対し、色々注文や忠告をしてくれる頭の良い部下と、何も言わないで黙ってついて来てくれる部下、双方そろってるから私は強い。
一緒に仕事をしたり、仕事を頼んだりする場合、相手が「折れてくれる」と助かる。「折れやすい相手」だと仕事がしやすい。
「イエスマン」ばかりで身の回りを固めるのは良くないなどど言われるけど、難局を切り開いてゆくときは、「何も聞かないでついて来てくれる部下」がいると助かる。
私の独創的な個性に対し、色々注文や忠告をしてくれる頭の良い部下と、何も言わないで黙ってついて来てくれる部下、双方そろってるから私は強い。
現場の仕上がり状態を最終的に判断し、OK(オーケー)を出すのは現場担当者や監督ではない。お客様から契約を受けた営業担当者である。現場担当者の「目」と営業担当者の「目」では、営業担当者の「目」が優先するのだ。
監督や現場担当者は、より良い商品に仕上げるため最善を尽くし結果を出す。しかし、お客様から直接仕事を受けた営業担当者は、お客様のために、もう少し立派にしたいと欲を出す。それが優先されなければならないのだ。
お墓屋は小規模会社だ。事務系の私が契約して図面を書き、職人さんに指示して工事をしてもらう。当初は私と職人さんだけで十分だった。
その後店舗が増え、営業担当者と工事担当者の人数が増えたが、私は従来の延長で、営業担当者が工事担当者に工事の指示をすれば問題ないと考えていた。しかし、工事が遅れたり、現場管理が甘くなってきていた。
人数が増え、組織が出来るとリーダー(監督)が必要なのだ。そこで、営業担当者で、私の右腕的存在(大番頭)に「工事担当者達のリーダー」を兼務させていたが、工事担当者達を思うままに動かせていないようだった。
私はハッと気がついた。野球にしても、サッカーにしても、監督は皆現場経験者ではないか。現場経験者でないと現場担当者の“心”が掌握(しょうあく)できないのだ。当社でも、工事経験者の中から、工事担当者達のリーダーが必要になっていたのだった。
天は必要なとき、必要な人を与えてくれるという。なんと、私のそばに適任者がニコニコして立っているではないか。即日彼を雑務から解き放ち、現場監督に任命することを伝えた。もちろん彼も「重職」に満足そうだった。
人事異動は会社存続にとって非常に重要だ。
私は基本的に相手の悪いところを強制的に直そうとしない。社内では、社長である私が名実共に全権を握ってはいるが、だからといって、私が言いたい放題、やりたい放題やったのでは皆が心からついてはこないからだ。
しかし、それを良いことに、各自が勝手な行動をとり、私の理想とする方向からはずれてしまいそうなときがある。そのとき、私は思い切った「人事異動」をする。言って聞かせただけでは“絶対”直らない。必ず態度で示さねば、人も犬さえもついてこない。
相手のプライドを傷つけることなく、しかも私の考えを“完全”に理解させる目的をもって「人事異動」すると、ほとんどの場合改善する。私が突然チーム編成を変えると、社員は「なぜ異動させられたか」反射的に反省するからだ。
過去には、どう変えても直らないような状況のときもあった。それでも私は相手を尊重し、相手を強制的に直さない。そして最も厳しい人事異動である「他社へ異動?」を発令する。しかし、ほとんどの場合その必要はないだろう。全ての人は、神が自分に与えた「条件」だからだ。
年々状況が良くなっているのに、行き詰まりの感情が増してくる。状況が悪くなっているのではない。良くなっているのに、なぜなんだろう。
それは、良くなるにしたがい、天井(ゴール)が近くなったからである。スタート時は、天井(ゴール)がはるか遠方なため、希望にあふれていた。しかし、時がたち、年もとり、天井(ゴール)が近づいてくると、一歩前に進むにしたがい、天井(ゴール)との間に挟まれてゆき、閉塞感(へいそくかん)が増してくるのだ。
すなわち、従来の価値観では、もう全てが「満杯」状態ということではないか。従来と全く異なった次元で、またゼロからやり直せということなのだ。
従来の「ゴール」は、「自分を基準」としていた。新しい次元の「ゴール」は、「世の中を基準」にし、世の中のために自分ができることは何かということを考えてゆかねばならない。それ以外に「飛躍」の道は無い。
それは、従来の自分を「捨てる」行動にほかならない。
「心の強さ」が人生の全てではないかと思う。「技術」とか「要領」とか「力(ちから)」とか「お金」とか「知識」などではない。
相手と対面したとき、この人には勝てないかも知れないと思うことがある。いろんな苦難を味わい、そしてのり越えてきた人には、「強い心」が養われている。
「心の強さ」こそ、人間の強さである。たとえ技術や力が優れていようとも、「強い心」に裏づけされていないものは、現実を前にして、もろくも崩れ去る。
「心を鍛(きた)える」のが人生の目的かも知れない。
「やること」それ自体より、「間合い」が大事だ。間合いが無いパンチは効き目がない。
「打つ」と同じように、「離れる」ことも重要だ。
打てと言ったり、離れろと言ったり、人生ってむずかしいナ。だから面白いのか。コツをつかんだ者だけが生き伸びてゆく。
目標数が多い人ほど成功すると言った(2008年12月18日ブログ)。また目標とは、より高いところにゆくために持つのではなく、「後悔」しない人生を送るために必要なのだとも言った(12月23日ブログ)。
目標は「目的」ではない(2月10日ブログ)。でも、目標を持たなければ、「幸せになる」、「意味のある人生を送る」という目的が果たせないのではないか。
もしかしたら、どれだけ多く目標を持って、それを実行するかが、人生の「目的」かも知れない。たった一回の人生だもの、いっぱい目標を掲(かか)げてゆきたい。
失敗するとかしないとかいう次元ではない。やるは失敗、やらぬは大失敗なのだ。
なぜ「失敗」するか。それは「成功」したからである。人は失敗すると、なぜだろう、自分のどこが悪かったんだろうと考えてしまう。
答えは簡単。「成功」したから、「失敗」が訪れたのである。成功して、油断してしまったのかもしれないが、油断しなくても「成功」のあとには必ず「失敗」が来る。
「失敗」を防ぐにはどうしたらいいのか。それは「成功」を目指さないことだ。私は社員を選ぶときも、少々問題を抱えている人の方が、「成功」しやすいと思うようになった。会社にとってそのほうがうまくゆくみたいだ。
相手に「良い」ことばかり求めない。「悪い」ところをそのまま受入れる。そして悪いところが出ないような環境を作り出したり、チーム(社員同士)の組み合わせを変えることで、その人の弱点が長所に変わるように配慮する。
事業も「成功」を目指したものは全てうまくゆかなかった。そこで今回の異業種新店舗は、最初から成功や利益を目指さなかった。「成功」するため、「利益」を出すためではなく、「事業それ自体が自分にとって“かけがえのないもの”でありたい」という一心ではじめたものである。その結果、多くの奇跡に恵まれたからではあるが、繁盛店になっている。
良いものを求めて行動するのは、誰でもやっていることだ。しかし、少々回り道でも、苦労から入ったほうが成功しやすいんではないかって思う。幸せや成功を探すんではなく、苦労を探して生きるようになったら、もう落ちぶれることはない。本物の人生をつかむんではないのかナ。
努力しようにも、努力の範囲を超えた「逆境」。ただ呆然(ぼうぜん)と立ちすくんでいるしかない底なしの状況。そんなときがある。
好景気をあてにして、借金して始めたものの、思惑(おもわく)がはずれてしまった。仕事がないのに、借金の返済だけがせまってくる。
自分も家族もお腹がすいてどうしようもない状況なのに、自分を雇ってくれる会社がない。底なしの状況にどんどん引き込まれてゆく。
鳥インフルエンザウイルスが人間に感染し、自分や家族にも迫ってきているが、ワクチンが無い。無防備の状態で、迫り来るウイルスに立ち向かわなくてはならない。
人間って、「裸一貫」なんだナ。家族すら守ってあげられない。動物の赤ん坊の中には、生まれた瞬間から、自分の力で歩き出すものがいる。歩けなければ、他の動物に襲われてしまうからだ。母親も子供を守ってあげられない厳しい現実がそこにある。
常にそういう現実を想定してゆかなければならない。少しでも力のある人は、自分のことだけでなく、他人のために行動すべきだナ。それが人間なのだ。
2月6日~11日まで一関と気仙沼の墓石展示会、続いて2月25日に異業種新店舗のオープン、3月6日~9日まで水沢店の墓石展示会、すごく緊張した日々を送ってきた。
今週は13日~16日まで北上店の墓石展示会、来週は盛岡店他の展示会があるが、とりあえず一息入れている。
ここまで来たら、あわてることはないと自分に言い聞かせている。今のところ順調に推移していることも安心材料ではある。各店については、現場責任者にまかせて、私は全体の「位置づけ」、当社の「方向性」について落ち着いて見直すことにした。
常に「経営理念」など、考え方がしっかりしていることが、目先の損益と同じように大事だと考えている。
2月22日以来のブログだ。こんなに間をあけたことはなかった。お久しぶりです。
さて、私たちは、各自それぞれの「意思」によって動いているようにみえるが、それとは別に「天の意思」というものがあって、私たち「個」は、「天」すなわち「全体」のために動かされてるんではないかと思う。
私たちの体を構成する細胞一つ一つは、それぞれいろんな性格をもっているけど、それらは結局私たちの「意思」によって、動き方をしっかりコントロールされている。
それと同じように私たち自身も、何か大きな物体の細胞の一部みたいなものになっており、その大きな「何かの意思」によって、動き方をコントロールされているんではないかと思う。
だから、全体の「意思」に反して、自分の身勝手ばっかりやってると、事件を起こしたり、摘発されたりすることになるのだ。それを、「国家統制」だとか、「民主主義ではない」とか言ってしまうのは、「個」の身勝手なのではないかって思うのだ。
もっと、「天」の意思に“畏敬の念”を持つべきだと思う。「天」とは「全体」のことであり、「人々」のことであり、「人類全体」のことだと思う。私は「天」の意思に沿って生きてるかな?
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