時間が見えた
先週の月曜日に親類の人が亡くなって金曜日の葬儀まで5日間、私が本家だった。今週は月曜日に私にとって大きなイベントがあり、木曜日に県庁での新規事業の重要な打ち合わせがあった。
ポイントとなる重要な日が次々に過ぎ去ってゆき、時間の流れを感じながら過ごしていた。ものすごい勢いで時間が流れてゆくのが見えた。
明日は、親類の一周忌の法要。私が本家になっているのでホテルの会場での席順などアドバイス。その他司会を頼まれている。それも、あっという間に過ぎ去ってゆくだろう。
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先週の月曜日に親類の人が亡くなって金曜日の葬儀まで5日間、私が本家だった。今週は月曜日に私にとって大きなイベントがあり、木曜日に県庁での新規事業の重要な打ち合わせがあった。
ポイントとなる重要な日が次々に過ぎ去ってゆき、時間の流れを感じながら過ごしていた。ものすごい勢いで時間が流れてゆくのが見えた。
明日は、親類の一周忌の法要。私が本家になっているのでホテルの会場での席順などアドバイス。その他司会を頼まれている。それも、あっという間に過ぎ去ってゆくだろう。
必要なものが、次々に目の前に現れ、手に入る。
守られているような気がする。
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欲しかった会社設立も、
霊園取得も、
特許も、
優秀な社員も、
そして、これからやろうとする新しい事業に必要なものも、
次々に目の前に現れ、手に入る。
なんか、守られているような気がする。
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でも、それらを参考にしたㇼ、生かしたりするといっても、自分がやることは困難なことばかりだけど・・・。
会社が存続するために、皆、代替がきく(誰か替わりの人間にやってもらえる)ように準備しているけど、社長の役割を代わってやれる人間はいない。当社の場合、残念ながら。
アイデア、価格付け、人事という経営の基本的なことだけでなく、図面さえも私がいなければ完璧なものに仕上がらない。(もっとも、当社の図面は、墓石店としては日本一細かいけど。)
形ばかりの跡継ぎはいるけど、経営者と言うのは本当に特別な能力が無ければやれないものだ。
経営者の一番の仕事は、ヒット商品の開発、発掘である。
次に人事管理。
結局、私にとって人生とは「経営」なり。
必要なのは「経営力」。
そのために、試行錯誤していたのだ。
足りないものがある、というのが「必要」だ。
人生には「必要」が必要なのだ。「必要」がモチベーションの元。「必要」は発明の母なり。
満足している者に、発展はない。
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最近、私は満足感の方が大きいかも・・・。
67歳という年齢と「自分のやった感」に甘えている。
もっと、ガツガツ、ギラギラ感を出さねば・・・。
人生のもう一つのテーマは「継承」である。
「自由」、「民主主義」、そして、厳格な「原理原則主義」・・・。それらを次の世代に継承してゆかなければならない。
日本が貧民国にならないために。
「あの仕事やった?」という問いに対し、
「やりました」・・・ではダメ。
「なぜ、問われたのか」を考える。問いかけた相手に心配かけるような自分だったことを反省することが大事。
問われる前に、しっかり報告しなければならなかったのかも知れない。普段から、不安を与えるような仕事をしていたのではないか反省し、それを改めるようにして、初めてOKである。
で、私のこれからのテーマは「恩返し」。
今まで、いろいろお世話になってきて、感謝してるけど、「恩返し」してない。
ということで、これからはせいぜい「恩返し」をテーマにいろいろ考えてゆきたい。
想定外のことを思い切ってやるつもりだ。
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どうせ、自分のことやっても失敗ばかり。
何かやれば失敗ばかりしている。
なら、失敗したと思って、思い切って恩返ししてゆけば、信じられないような事でも何でも出来る。
私が考えれば、面白いことが出来る。
恩返ししないで、このまま終わる訳にはゆかない。
人生を創造するためには、取り組むべき「テーマ」を決めることが大事だ。
私の新しい「テーマ」も次第に明らかになってきた。
良いことが、悪くなるきっかけになり、
悪いことが、良くなるきっかけになる。
よく観察していると、そうなっている。
したがって、悪い時に、嘆いてばかりいないで、良くなるきっかけを探し、チャレンジすることだ。
私は、何か創る(つくる)ために生きている。
会社作ったり、ラクラク納骨墓石や数多くの特許墓石作ったり、霊園作ったり、みんなの墓作ったり・・・。
だから、これからも今まで誰も見たことないもの創ってゆきたい。
・・・が、最近は、なかなかひらめきが降りてこない日々が続いている。
このまま終わっていいのか。
まだやることが、いっぱいあるのではないか。
昨日来店したお客様に、葬儀について事前に詳しく教えてもらっていたので、急に父親が亡くなってもあわてなくて済みましたと感謝された。一関霊園の会員様。
相談に来るお客様には、相談されたことばかりではなく、「全体像」を全て紙に書いて説明している。葬儀屋の選び方、推薦する葬儀屋の紹介、お寺へのお布施について、金額、お布施の出し方、出すタイミング、葬儀の流れ・・・・。
また、今日一周忌の法要申し込みのお客様にも、参加者が家族3人だけだと言うので、一周忌過ぎてからの供養でも構わないからと、来年の合同法要での供養を案内(合同法要は参加料7000円)。
実際の一周忌には、家族だけでしっかりお墓参りしてほしいと話す。私は、一関霊園を創設した「開基」であるから、皆、私の進言を信頼している。
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一昨日終わった葬儀では、「会計帳簿」も担当したが、記帳は葬儀中、娘(恵美)がパソコンで香典の受付と同時進行で入力してゆき、葬儀終了時には全て記帳が終了しているというスピードの速さ。
それを、親せき、親類、会社関係、一般参列者・・・と、種類別に並び替え、金額を集計し、表紙を付け、印刷して喪主に渡すので、分かりやすいと感謝される。
ソフトはエクセルで私が作成したものだが、今朝、そのパソコンの情報とソフトが欲しいと喪主がUSBカードを持ってきたので、コピーして渡す。喪主は、以前から私がつくったソフトが欲しかったらしい。
特許以外、私の知っていることは、仲間に全て教えておくことにしている。そうすると、私の手が足りない時、そのソフトを使って助けてくれるのだ。「親切は他人のためにあらず」必ず自分に返ってくる。
本家と言えども、一人では何も出来ない。
昨日で、5日間の葬儀が終了。
何とか本家としての役割を果たした。
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私は、最初に家系図を書いてしまい、出席者の続柄と、名前と、顔を覚えてしまう。
そして、焼香順を決め、席順まで指定しまう。だから、焼香も整然と行われ、その順番は葬儀が終わるまで同じであることを皆に周知しておくから、最後まで規律正しく行動される。
参加者の中には遠慮して遠くの席に座る人などあるものだが、指定されているから、そういう事態にはならない。
火葬での遺影、遺骨などの担当もあらかじめ決めておき、その担当は最後の日の納骨まで同じであることを伝えておけば、責任もってやってくれる。
供養膳の席順は、焼香順と逆になることが多い。焼香は喪主が先頭だが、供養膳の席は喪主が末席になる。出席者全員の気分を害さないよう気配りする。司会では、出席者全員の続柄を皆に紹介し、場合によっては一言話してもらうなどして、場を和らげる。
日程やバスの時間など、常に全員に対し周知を怠らないようにすることが成功の秘訣である。
「犬も歩けば棒にあたる」というけど、「オレも歩けば石につまずく」だ。
最近、ちょっと歩くと、何かにつまずいて転んだり・・みっともない醜態をさらしている。
事の初めは、孫の聖君と競争して大々的に転んでしまったこと。一昨日は、葬祭会館の駐車場で車止めにつまずいて転んだ。
今日は、明日の納骨の下見のため、葬家の墓石の骨ぶたを開けていたら、足が引っかかってよろめいた・・・。
ちょっと歩くと、つまずくようになった、というか、そもそも、歩けば何かにつまずくものだということが分かった。要は、いつも会社にばかりいて、外に出ないから、よく下を見て歩いていないということ。
それに、何をするのも勢いがいいので、つまずくとダメージが大きいのかも知れない。・・・もしくは、年を取り、脳がおかしくなった・・・。
私は、後者の脳の異常ではないかと感じている。危険な領域に入ってきたということ。自分の体力に自信がなくなってきたが、それくらいの方がいいのかも。
いつも全力疾走だから、ゆっくり歩く口実(こうじつ)が欲しかった。
今日は次女彩の誕生日。
私の長女恵美(8月6日)と次女彩の誕生日(10月22日)と、事務の八千代さんの長女(10月22日)と次女(8月6日)の誕生日が同じだと・・。
親せき構成を聞き、家系図を書き、今回の葬儀への参加者の全体像を把握する。亡くなった88歳のおばあさんは8人兄弟。その夫にも8人の兄弟がいる。さらにその先祖の関係の人も呼ばれる。そして喪主の家族、お嫁さんの実家・・・・。
その他、親類は葬家含めて10件。また、近隣として必ず呼ばなければならないところが2件。総勢40人程度の焼香順、会食の席順、お寺へ行く際の葬列方法を決める。
さらに、葬儀までの役割分担を決定。物品準備、受付、帳面、弔電奉読、司会・・・。人出不足なので司会は私・・・。一般焼香者は200名ぐらいか。
本家は大変。・・・・・・でも、大体整理着いた。
親類の方が、今朝亡くなった。
私が本家。緊張が走る。
日程、出席者確認、席順、焼香順、役割分担・・・。責任が覆いかぶさってくる・・・。
全体を取り仕切ることが、天から仰せつかった役割か。
達成感を持ったら、人生もう終わりだ。
戦後、日本がなぜ世界一の経済大国になったのか。焼け野原からの復興を目指したからである。
現在、なぜこんなにひ弱な国になったのか。大国となった達成感で安心したからである。まさか、中国に追い抜かれようなんて誰が想像しただろう。
そして、少し苦しくなると弱音を吐いて自殺だと。女優になる夢など、自分の目標を達成し、成功した人間ほど弱くなった。
日本も、もう一度新しい目標設定して走り出さなければならない。ほっこりなどしていられない。
人生このまま終わっていいのか。
今のままでいいのか。
毎日、片手で腕立て伏せを続けていたら、手のひらに腕の骨が当たる部分が痛くなった。
ということで、回数を減らすことにした。
腹筋をやっていたら、尾てい骨あたりの皮膚が真っ赤にただれてきたので、回数を減らしてやっているがそれと同じように、神経的、肉体的には大丈夫でも、皮膚の表面がもたない。
適当にやれと言うことかも知れない。
経営者の私が、後継者に経営を渡すということは危険である。後継者が経営者として適正かと言うと、ほとんどの会社は疑問符がつくのではないか。
したがって、経営者は後継者に経営を引き継ぐのではなく、現経営者、次期経営者、参謀の三者で「三本の矢」となり経営することが大事だ。一本の矢ででは折れてしまう矢も「三本束」になれば折れることはない。
社員を統率し、設備を整え、収支を安定させるという経営の目的を、一人の経営者だけに負担させるのではなく、折れない「三本の矢」つまり三人体制でやればいい。
現経営者は簡単には引退できない。私も90歳までやらなければならない。
いつも、慎重にゆっくり歩いている者も、津波が来たとか大地震が来たら、一生懸命走るんではないか!!!!!!
仕事が忙しくなっても、のんびりいつもの調子のヤツは、社会から抹殺されるね。社会的に死んでしまうということ。
自分も家族も支えられない。一生負け組である。
仕事が忙しくなったら、必死で働け!!急げ!!
今日は秋晴れ。昨日の雨から一転気持ちがいい日となっている。
やはり、日照りの夏、厳冬といっても、その中には過ごしやすい日がいっぱいある。よく考えると、夏や冬と言っても、天候が厳しい日や時間を避けて行動しているのではないか。
厳しさに向かっているわけではない。厳しさの中で、スキをねらって生きているのだ。すき間産業である。
人間は、厳しい夏と冬に思いっきり楽しむ方法を考えた。
海や雪山のスポーツだ。
苦難は楽しむものかも知れない。
もうすぐ冬が来る。考えてみれば、この冬を迎えるのは、あと十数回。80歳まで生きるとすれば、あと13回。85歳までとすれば18回だ。
だから、一回一回の冬をこれからは大事にしなければならない。
私には、春とか秋とかいう感覚はあまりない。あるのは夏と冬だけ。春は夏への移行間で、秋は冬への移行期間に過ぎない。つまり、私にあるのはカンカン日照りの夏と、身が凍る厳冬、それしか考えられない。その厳しい季節を乗り切らなければならないと、いつも危機感を持って生きているのである。
あと何回と思うようになったのは最近のこと。そう思うと、訪れる季節がいとおしい。その厳しさに対応するのもあと十数回である。
もう少し頑張ればいいのである。
気付いても、自分にはどうすることも出来ない、だからダメだと気づいたけど「しょうがない」と考え、何もしない人間は・・・。
許される?・・・ 許されない・・・? 要するに「いくじ無し」の人間だ。
「善意無過失」かどうかで判断すれば、悪いということは知っているので「悪意」だから、即アウトだけど、「いくじ無し」だから、それなりに使って生かしておくことも出来る。
しかし、「しょうがない、しょうがない」だけの判断基準でやられるから、大事なことは一切任せられない。
「善意」というのは、悪いということを"知らなかった”(知らない=善意と言う)ということ。
「無過失」というのは、悪いというのを知らないことに過失がない、ということ。少し考えれば分かるようなことは「過失あり」とされる。
「善意無過失」(善意=知らなかったことであり、しかも善意であることに過失が無いこと)でなければ許されない。
会社は総務がしっかしていないと崩れる。
意気地なしや、仕事以外に神経使っている連中がいてはたまらない。
私がここにいる限り、絶対許されない。
零細会社が生き残るためには、同一商品を大量生産するのではなく、多品種を少数積み重ねて多数手掛けること。
その点、墓石は同一品種と思われがちだが、一つ一つ全て設計が異なる多品種産業であり、それを数多く仕上げることによって成り立っている少数多品種産業である。
70歳にもなるのだから、そろそろ飛躍はいいだろう、無理かもしれない・・・と、自分を見捨てればその通りになって終わる。
自分だけは、自分を見捨てたくない。
まだまだチャンスはある、打つ手は無限である・・・と、自分に言い聞かせれば、必ずその通りになる。
人間って基本的に前に進むように出来ているのかも知れない。
遊んだり楽したりできないようになっている。
楽しんでいるとしたら、前に進みながら楽しみに出会っているのだ。
だから、いくつになろうとも課題を見つけて挑戦しなければならない。
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「仕事の量」と「楽しみ」は天秤のようにつり合っている。
しっかり仕事したものだけに、極上の楽しみが与えられるのだ。
宇宙ステーションに行きたい
使用料を払えば行けるけど・・・・。
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地球だって宇宙。
だから、地球にある全ての住まいは宇宙ステーション。
地球は宇宙ステーションだらけ。
Gотоステーショントラベル。
収入ばかり意識してもダメ。
自分を高めるのが人生。
高まっていれば、皆が購入してくれる。
逆境を嘆くでない。
闘争心が芽生えたではないか。
この闘争心を利用して、
逆境を逆転させればいい。
それだけのこと。
それだけのことが出来る男はそんなにいない。
でも、私はそうしてきた。
逆境の都度、アイデアを出し、
私は飛躍してきた。
それにしても、攻めれば崩れる。
人材と経費、収入のバランス。
攻めて、自爆するわけにはゆかない。
人は、自分の人生を完結するように生きているのではないだろうか。
私は銀行員として仕事というものの基本を学んだ後、実業として墓石販売、工事の世界に入り、誰にも負けない墓を作るまでに組織してきた。
その後、守備範囲を拡大し、地域の人達のために墓地を造成し、霊園を作り、そこでは、私が理想とする葬祭が行われるようになった。葬儀から法事まで、行事内容や料金などが分かりやすく行われているのである。
そして、今回さらにそれらを社会全般に広げるために、新しい事業に取り掛かっている。
こうして、70歳になろうとしている自分が振り返ってみると、人生って、自分の与えられた使命を完結する方向で生きているのではないかと思う。
完結まで、もうしばらくかかりそうである。
改革ではない。
時代を変えるのは、
革命だ。
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